彼岸へ、そしてその先に

森で行われた泊りがけのワークショップを終えて戻りました。未だに静かな余韻が漂います。参加者約10名は、同世代か少し上の世代で男女比率が半々でしたので、まるで修学旅行のようでもありました。それぞれが年齢を重ねてきた重みと味わいのようなものが場に漂い、それらが嬉しくもあり鮮やかでもありました。人と関わることが億劫な私が、人と関わることの楽しさと豊かさを感じた充実の三日間でした。

ファシリテートする橋本さんの死生観と人と人とのつながりや在り方への視点が、私は大好きです。先生と呼ばれ持ち上げられることをご本人が好きではないようで、「くにちゃん」と親しみを込めて呼ばれる小柄な大阪のおっちゃんは、誰の力も奪わず風景のようにそこに佇み、童のように目を輝かせます。11年前もそして今も、私は彼を心から尊敬し、あのようでありたいと思います。真に偉大な人は、静かに市井の中にいるものです。

橋本さんが主催する場(円座、といいます)というものは、有機体のようでもあり、ただ円になって座っているだけなのですが、不思議と「個別の私達」という分離感が揺らぐように思います。そこに何らかの意図や操作があるわけではなく、それらが無いからこそ、立ち上がってくるものがあります。誰かに投げかけた言葉が、それを発した本人にも同時に作用するような、そして、第三者の口を借りて誰かの本音が紡ぎ出されたりします。それぞれが隠していた何かが不意に現れて、戸惑う時があります。ただ、それらが他のワークショップと違うのが、場の主旨がヒーリングやセラピーといった人為的なものに比重が置かれていない点かも知れません。橋本さん曰く、円座は俳句に近いとおっしゃいます。

今回私にとって、それは自分の情念のような側面でした。感情や気持ちをゴミ箱に捨てる心の癖は、ドライな心象を保つことで必死に守ろうとした何かがあります。しかし、何年も費やしてやっと受け止めることができた殺意にも似て、私の中の情念もまた、私自身に受け入れられるのを密かに待っていたのかもしれません。「人に対する、こんな湿っぽくおどろおどろしいものは要らない」と押しやってしまうと、知らないうちにそれに私自身が乗っ取られます。エニアグラム感情センターのウェットな人達を馬鹿にして「知的ではない」と鼻で笑いながら、知らないうちに彼ら彼女らに振り回されてしまうのと似ています。半ば化け物扱いをしてきた彼ら彼女らこそが、一番見たくなかった認めたくなかった私そのものであるという視点にやっと立てたのかもしれません。

図らずも、その作用によってなのか、長年の懸念事項であったアルコール依存症の祖父への赦しが大きく前進したのを感じます。祖父を地獄に留まらせ成仏させることを赦さなかった私が、成仏へと歩(あゆみ)を進めた感がありました。

橋本久仁彦さんHP : http://enzabutai.com/works.html