1月27日の日記

毎日、姫乃宮亜美さんのブログを読んでいるのですが、1月23日の記事がとても心に響きました(⇒「エネルギーを保つこと」)。

エネルギーのベクトルがずれてしまう心癖があって、何度もここにそのことを書いているのですが、目に見える何かをやらないと自分は何もしていないと思い込んでしまうのです。例えば、やることリストを全てこなせば OK で、そうでなかったらその日はダメだとか。自分の心の状態ではなくて「いかに多く右のものを左に動かしたか」に注目してしまうのです。これは蘭丸さんにもよく指摘されています。先週は忙しくて、来週も忙しくなってしまうので今週はその合間のゆっくりできる一週間でしたが、自分の心癖に見事にはまって身動きがとれなかった感がありました。なんだかエアーポケットみたいにすぽっと入ってしまう時があるのですよね・・・。
今日の亜美さんのブログ(⇒「幸福へと焦点を合わせて」)も、まるで私の為に書かれているようです。

大寒から立春までの一年で一番寒い時期です。先日からの大寒波で、こちらはまとまった雪が降りました。今週末も雪予報です。どうか皆様も温かくしてお過ごしください。

*画像は Pixabay の無料画像からお借りしました。

1月20日の日記

先月のことですが、ある作曲家さんの音楽講座に参加しました。蘭丸さんの高校時代の親しい友人で、作曲家になった方がいるのです。その方が年に一回、郷里で音楽講座を開いていらっしゃいます。それに私一人で参加してきました。

ショパンやベートーヴェンといった有名な西洋音楽史に名前が残る作曲家にその都度絞り、その人物がどのような世界観で音楽を作成したのかや、時代を含めた作品背景などを講座では辿っていきます。私は二年前に一度出て、今回が二回目でした。毎回お話が興味深くて楽しいのです。私を含めて多くの人達がただ漠然と曲を聴いていると思うのですが、その背景や音の構図を知っていくとまた違った世界観が見えてきます。作品がより立体的になるのですね。今回取り上げた作曲家はドビュッシーで、クラッシック音楽の中では比較的好きで一時期よく聴いていました。日本でも車のCMなどに使われて誰でも知っている有名なピアノ曲が、実は竪琴(主にケルティック・ハープ)として弾くように構成されているとか、使われている和音が従来の西洋旋律ではなくてパリ万博で彼が出会ったガムラン音楽の和音だとか、知ると面白いですよね。「なんとなくこの人の音楽は新しい感じがする。どこか幻想的で聴いていて綺麗だなあ」とぼんやり思っていたのですが、そんな背景もあり、尚且つ彼の作品が Jazz にも影響を与えていることを知って驚きました。

また、先月から参加した本気モードのコーラスグループで、年明けから芸術性の高い曲に取り組み始めました。高校時代の合唱大会以降、合唱曲に全く触れていなかったので楽譜を見てとても難しく感じて「こんな難解な作品を歌えるのだろうか」と焦りました。有名な曲なので YouTube にあると聞いて、さっそく検索してみたところ、完成するととても美しい歌で、まるで絵画のように感じたのです。こんな感じ方をしたことがなかったので新鮮でしたし、難しくてもチャレンジしがいがありますね。

先に触れた音楽講座も難しい合唱曲も、私に新しい見方を与えてくれて新鮮なのです。知らないとぼんやりしたまま触れることで終わっていたのですが、なんだかこう、視点が開ける・変わることの面白さを最近体験しています。もしかして聖霊の視座ってこれに近いのだろうなとも思いました。私達は知っているようで知ってはいない、見ているようで見てはいないのですから。聖霊にいつも問いかけていく心の静けさが必要なのですね。

*この作品を女性三部合唱で歌っていきます。

1月13日の日記

15 年前くらいに関りがあった大好きな友人が昨年から食道がんを患い手術をして、現在化学治療をしていることを知りました。彼はかなり波瀾万丈の人生を送っているのですが、繊細なのに頼りがいのあるリーダー気質で当時は色々と相談に乗ってもらいました。ずば抜けて行動力のある彼は、東日本大震災でも真っ先に現地へと向かい、ボランティア活動をしていました。その後も本当にいろいろと活動の幅を広げていた人なので、私の中では最も病気から遠い人物でした。「まさか」とショックだったのと逆流性食道炎が私にもあるので、そこからの癌(胃がん・食道がん)に自分もいつか罹患するのではないのかという恐怖がある為に、彼の闘病ブログを一気に読んでしまいました。

そのブログはまだ完結していないのですが、病気を機に彼が自分自身を大きく変えようとしている様子が細かく書かれています。同じエニアグラム・ガッツセンター(エニア 8彼・9・1私)のこの人は私の性格を極端にしてエネルギーをてんこ盛りにしたような男性です。繊細さと粗暴さ、光と影、極と極の幅の大きさに身体がついていけないことが描写されており、似た気質を持つ者として深く共感したのでした。また、私を含む一部の人間は当時から知っていた彼の性的マイノリティーのカミングアウトも今回行われました。力と強さを誇示したいエニア 8 番の彼が自身の繊細さや弱さ、脆さをオープンにし始めたことで、その背景にはどれだけの葛藤があったのだろうかと思います。「漢の中の漢」「真のリーダー」そんな彼がまるで脱皮した蝶のようにしなやかに変化していく様子を SNS から見せてもらい、ああやはり新しい時代に入ったのだと実感しました。

この明るいジェンダーレスのしなやかさ、心の柔らかさ、突き抜けるスカッとした鮮やかなエネルギー、そうしたものを彼から感じ「ああ、完治するだろうな」と思いました。そして私もこのエネルギーを育てたいと思ったのです。

*画像は Pixabay の無料画像からお借りしました。

1月6日の日記

明けましておめでとうございます。
ご訪問ありがとうございます。今年もよろしくお願いします。

懸念事項の雪は雨になり、雪かきをせずにお正月を過ごせました。蘭丸さんの風邪はダラダラと長引いてしまい、元旦に彼の実家へ挨拶に行った以外は寝正月となりました。
遠出もせずに自宅で過ごしています。まとまった時間があると、彼とゆっくり深い話ができるので嬉しいです。今年の抱負を語り合いました。
私は、未だに動物達と植物にほぼ限定されている分離感の無い一体感の意識、愛の意識をお人に対してもう一段階拡張することが抱負です。文章で書いてしまうと簡単ですが、私にとっては難しく数年がかりの取り組みです。先月観た映画「ラーゲリより愛を込めて」の山本さんのように、与えられた場所で精一杯愛を与えて広げられる生き方に心を強く打たれます。

昔、愛を与えているようで奪っている人達に多く出会う時期がありました。承認欲求や自己顕示欲、取り引き、感情的な操作など、そうした「愛以外の何か」にまみれたものを差し出された時の、何とも言えない重苦しさ息苦しさを思い出します。今となってはそれも愛を知る為の良い経験であり、自身を振り返るきっかけでした。私は粘着質で恨みがましい性格なので時々思い出したように、それを向けられた時の怒りや不快感が未だに出てくるのです。その直後に気を取り直して「相手が、ではなくて自分は何を与えるのか」それだけが大切であることを思い出します。相手から奪った幻想のまがい物ではなく、与えた愛だけが肉体を離れても持っていけるものなのですから。「やった、やられた」「奪う、奪われた」そうしたカルマ的な連鎖を断ち切った幻想の向こうにある世界を生きたいといつも願います。

自分が延長・拡張した世界という認識でいること(境界線の話とは異なるレベルの話です)つねに自身の内側を丁寧に見ること、自分が自分に対して愛を向けること、これらをより一層丁寧に取り組みたいです。この点の取り組みに関しては、姫乃宮亜美さんの動画配信サービスを担っている memrera さんのブログから実践の気づきを与えられています。彼女も動物を大切に想い行動している方なので、それも併せて日常の意識の使い方を学ばせてもらっています。

皆様にとっても幸せで良い一年となりますように。