退院しました。

子宮全摘手術を受けて無事に退院しました。
事前に、主治医の先生から開腹手術の可能性もあることを聞いていたのですが、予定通りに腹腔鏡下の手術になりました。取り出した子宮は、多発性筋腫により25cm強の大きさで、重さが525gもあったそうです(通常は鶏卵の大きさです)。術後に写真を見せてもらいましたが、子宮よりもはるかに大きい筋腫が幾つかあり、私が受け止めることのできなかった苦しみや痛みを、この臓器が一手に引き受けていたのかと思うと胸が痛くなりました。

そして何よりも、医療関係者の方々には本当に頭が下がります。術前の不安な気持ちに寄り添ってくれた私よりもずっと若い手術室の看護師さんの愛と手の温もりに、手術台の上で泣きそうになりました。今回の病院は婦人科の先生方もスタッフさんも、とても親切で安心して入院生活が送れました。本当にありがとうございました。当日付き添ってくれた母親にも、感謝します。また、祈りの気持ちを寄せてくださった友人達や読者の皆様にも、お礼申し上げます。

術後一か月は自宅安静です。入院中の気づきもありましたので、ぼちぼちと更新していこうかと思います。

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密やかな陽の光

明けましておめでとうございます。
ご訪問頂き、ありがとうございます。今年も宜しくお願いします。

年末年始は引き続き、俳優ソン・ガンホが出演している映画を何本か見て過ごしました。作品ごとにまるで違う人間になってしまう彼の圧倒的な演技力は素晴らしい限りです。今回は2009年日本公開の「シークレット・サンシャイン」について書きます。この作品も私に語りかけるものがありました。「救い」がテーマですので、コースを学んでいる方には是非見て頂きたい映画です。

ストーリーは、夫が交通事故で亡くなった女性シネが息子と共に、夫の故郷である地方都市の密陽(ミリャン)で新しい生活を始めます。しかし、自身の虚栄心により最愛の息子が誘拐されて殺されてしまいます。主人公のシネは、キリスト教に救いを求めて息子を殺した加害者を赦そうと試みます。しかし・・・というお話です。

私は最初、主人公のシネが好きではなかったのです。ソウルから地方に引っ越してきた時に、微妙に密陽の人達を馬鹿にしていたり、何かこう、自分を必要以上に大きくみせようとしているようで、それが鼻についたのですね。加害者に対しての彼女の「赦し」が、霊的に相手を見下すことであったりと。酷い出来事が起こる以前から、彼女の頑なさが好きではありませんでした。でも、少し時間が経ってからこの作品を思い返してみると、上下関係や勝ち負けで世界を捉える姿は私自身と被りますし、何よりも聖霊からの救いに気が付けない姿には共感しました。ソン・ガンホ演じるジョン・チャンは、いわばシネにとっての聖霊のような立場にいますが、彼のちょっとお節介ながらも温かい優しさはずっと適当にあしらわれています。

キリスト教徒が多い韓国で、批判を恐れずによくぞここまで描きました。
密陽とは、密やかな陽の光―シークレット・サンシャイン・・・聖霊の救いの光は、静かな陽射しのように絶え間なく降り注いでいるのですが、人がそれに気が付くのは難しいのでした。

冬至の夜に寄せて

三週間で三角巾が取れて左手が使えるようになりました。
術前に怪我をしたことが少しショックだったのと、家事も思うようにできず外出もままならなかったので、レンタルで映画でも見て気分転換を図りました。なんとなく韓国映画「JSA」を何年かぶりに見たことで、この作品で冷静な北朝鮮の兵士を演じていた俳優ソン・ガンホに魅力を感じ、彼の出演作を一通り見てみることにしました。今日は彼が主役を演じた2010年日本公開の映画「渇き-thirst」について触れたいと思います。

カトリックの神父が「人を救いたい」という思いで治療法がまだ無い伝染病の人体実験に志願し、救命での輸血により吸血鬼になってしまうお話です。神への信仰だけに生きていた彼は吸血鬼になったことで、理性が効かなくなってしまい、司祭として禁じていた人間が本来持つ欲望に翻弄されていきます。ある時、抑圧された人生を送っていた人妻と出会うことで、彼女や周辺の人達を巻き込み、思ってもみない方向へと進んでいくのです。

いつものぽっちゃり体型から10kgも痩せてこの難しい役を演じたソン・ガンホの心意気と、彼のフルヌードを見たいという下心で借りた作品でした。しかし、思いのほかテーマが私自身のものと似ており、ずっしりと重い何かが心に残ったのです。音楽も美しく、ヒロインも非常に魅力的で、ソン・ガンホの繊細な表情や微細な眼差しの表現力に引き込まれるように見てしまいました。生々しい欲望や殺意と信仰の間で葛藤する主人公の姿、圧し掛かる罪悪感、性愛を通して初めて彼が感じたであろう愛・・・。この映画はかなりの流血シーンがあり血まみれているのですが、何処かファンタジーのようでもあり、コミカルでもあって、そこはかとない悲しい美しさが存在しています。ラストシーンは、彼が信仰を持っていた故の選択に思いました。

ホラー映画と思いきや、実は愛がテーマのお話です。

 

怪我の為、ブログをしばらくお休みします

今日、左肩の腱を切ってしまい、骨折した時と同じように三角巾で左腕を固定し暫く使えなくなりました。今も片手でキーボードを打っています。一か月はこのままの状態です。
子宮全摘手術の日程は、年明け1月16日入院の17日手術に決まりました。三角巾で腕をつったまま入院することになりそうなので、何科の患者かわからないです(笑)。こんなことって、あるのですね。

少し早いですが Merry Christmas 良い年末年始をお過ごしください。

未知の領域

動物愛護の活動は、修羅場の連続です。犬や猫の殺処分や虐待、遺棄、ネグレクトといった問題と向き合うことは、精神的なタフさが必要に思います。私も含めて、この問題に関わっている人達は動物達が置かれている厳しい現状に憤りを感じている人が多く、それぞれの考え方の違いなどでSNSでも厳しい言葉が飛び交います。動物は自身の脆弱さを投影し易い対象でもあり、私と同じように正義感が強い性格の方が多いので親しみを感じる反面、自分自身の正しさから外れる人に対して激しく断罪してしまう危うさがあります。

私は以前に、動物の方が心を通わせられるので「動物が人よりも大切(動物>人)」という価値観を持っていると書いたことがあります。犬・猫が置かれている状況に心を痛めていると、人間が醜いだけの存在に思えて「人なんてどうなってもいい」とすら感じてしまいます。「動物も人も、みんな大切」とはならないのです。例えば、様々な事情でやむを得なく犬・猫を保健所に持っていった人達に対して、それぞれの状況に心を寄せることができずに罪人呼ばわりしてしまうのです。また、未だに赦すことができない虐待犯たちに対しても同様に、彼らを即刻殺してしまいたい強い衝動に駆られます。過去生で魔女裁判を行った時と同じような「即、断罪。死刑!」という己の信念の為ならば暴力も辞さない心の癖が出やすいのです。

彼らと自分を切り離さずに、自分自身の罪 (sin) の投影として受け止め、聖霊に祈り赦しを与えてもらうことが馬鹿馬鹿しい茶番に感じられるのならば、ここに大きな愛を見つける為の鍵が在るはずです。身体は無く動物達も含めて私達が永遠不死の存在ならば、今よりももっと違った形でこの活動に関われるでしょう。


神(愛)だけが存在する・・・恐らくそれは、未知の領域です。私は過去生を繰り返す為に、この幻想を生きているのではありません。愛を知る為に、神を知る為に、なんとかしてこの扉を開きたいのです。

本当に欲しかったもの

「犬猫ちゃんの殺処分を無くす為に、健康になったらもっと自分は与えられるはずだ」という思いで子宮摘出手術を受けることを決めてから、様々な気持ちの揺れや変化があったのですが、なぜか前の夫のことが本格的にどうでもよくなってきました。私は猫たちから内側の愛の鉱脈を与えられ、そこに立っていると例のメシウマ論(Ref 過去記事①  )が取り消されていくのです。

今にして思えば、私のメシウマ論というのは「私の自我よりもずっと巧妙な小賢しいやり方で愛の代替物をより多く搾取できる自我を持っている人」に向けられた負け犬の遠吠えのようなものでした。でも、自我が自我である限りは決して愛を感じることも愛を手に入れることもできないと徐々に実感し始めると、愛の代替品に何の価値があるのだろうかと思うようになりました(愛は与えるもので、自我にはそれができないから)。そんな心の変化の中で、元夫を哀れに気の毒にさえ感じるようになったのです。

当時の彼が得たものは、精神的に衰弱していた私から巻き上げることができた私の稼いだお金約三百万円と私が持ってきた百万円の檜の家具、若い再婚相手、「嫁(私)が新興宗教に入って頭がおかしくなったから離婚した」という嘘により作られた彼の都合の良い状況、そんなところでしょうか。今の私には、彼が得たそれらに価値があると思えなくなったのです。

現在、元夫がどうしているのか全く知りません。たとえ彼が仕事も充実してお金も持っていて健康で家庭円満であったとしても、なぜか恨む気持ちが無くなってしまいました。「打ち込んでいた仕事を何年も前に辞めて、それからずっと病気がちで再婚も未だできす、子供も持てずに遂に子宮を取る」自分を嘆いてもいいのでしょうが、なぜか全くなりません。なにかそんなことを吹き飛ばすくらいに、内側の愛の源泉が確かなものであり、猫たちに愛を与える喜びがそれらに勝ってしまうのです。私は苦労しましたが、本当に欲しかったものはこれだったのです。愛を知ることだったのです。

私の赦しの基準として「相手の幸せを心から祈れるかどうか」というのがあります。彼に対しては、これも秒読みの段階に入ったようです。

 

囚われの身とは誰か

十月はブログの更新が殆どできませんでした。貧血が悪化すると、まず朝起きられなくなります。もともと血圧が下40台・上が80~90台という超低血圧のところに重い貧血がくるので、なんとかして起きられたとしても身体がだるく、頭がぼんやりしてしまいます。お医者さんから処方された強い造血剤が効いてきて、月の後半はなんとか蘭丸さんに会いに行けましたが、自宅に戻ってからまたぐったりしてしまいました。

彼と会った時に映画「教誨師」を一緒に見に行きました。映画自体は淡々とした内容なのですが、大杉蓮さんの遺作となったことから、小さな映画館は満員でした。コースを学んでいく中で、私の自我(エゴ)が究極的にやりたいことは殺人であると知ってから、どこか死刑囚と彼らを取り巻く世界が、自分と近い存在になりました。関係があるのかわかりませんが以前、顧客に政治家を持つある霊能者の方に見てもらったことがあって、ひとつ前の前世で私は死刑囚だったそうです。その人生で犯罪を犯した訳ではなく、見せしめの為に公開処刑にされたそうです。後々に、魔女裁判に関わったカルマの清算をそこでやったのだと知りました。輪廻転生はコースでは幻想に属するものであり、今私は違う幻想を生きていますので、単なる夢の連続に過ぎないことが透けて見えます。

この映画は聖書の言葉による重要な「問いかけ」を最後に投げてきます。その問いかけによる答えはコースに書かれていますが、私がその答えを「真に知る」までにまだ時間が必要です。殆ど赦しが進んでいない日々を過ごしていると、自我の見えない牢獄に囚われているのなら、実際に牢獄に入ってはいなくても彼らとたいして変わらないと思ったのです。

大きな決断

この冬に子宮摘出手術を受けることになりました。聖霊から許可が出たのと、自分の中で気持ちの整理がついたからです。来月より大病院に移ることになりました。病気を治す為にこれまで、コースを始めとして食事療法や女性性のワーク(AFP)といった様々な取り組みをしてきました。しかし、筋腫は大きくなるばかりで、それに伴う過多月経によって重い貧血状態が続き日常生活がままならなくなってきました。また、痛みと出血を伴う内診検査を受け続けることにも辛さを感じました。前回の手術から丁度五年を迎えたことと、心の中で「犬猫ちゃんの殺処分を無くす為に、健康になったらもっと自分は与えられるはずだ」という愛からの動機が出てきたことで、摘出手術を決めました。

手術を決めてから、想像していた以上に気持ちが動きます。蘭丸さんも私も子供が欲しかった訳ではないので、動揺は無いと思っていました。乱気流の飛行機に乗っているかのような不安な気持ちの中にいると、私の自我は感情はゴミ箱行きにしたがります。コントロール感を失うことへの怖れが出てくるのです。揺れ動くこの感情に寄り添うことと、入院と手術でお世話になるお医者さんや医療スタッフさんたちを心から信頼することが、子宮からの最後の課題かなと思っています。手術は十二月か来年一月を予定しています。

 

できたこととできないこと

前回の記事では十年がかりの赦しが終わったことに触れました。このブログでも再三に渡って触れている祖父と元夫のことも、少しずつですが恨みの気持ちは薄らぎ始めました。祖父は死後十八年近く経ち、元夫とは離婚して十二年が経ちました。これだけの年月をかけて、やっと激しい怒りと憎悪が薄まってきました。しかし私は今もって尚、動物虐待犯達と彼女アートセラピーでも扱ったテーマです)は赦せてはいません。

この人達に関して、直接会った場合には、私が相手に殴り掛かるくらいの強い憎悪を持っています。動物虐待犯はネットで顔と名前を晒されて、多くの人達に非難をされています。しかし彼女に関しては、彼女からの加害行為を知らない人達が彼女の作品を囲んでチヤホヤしていることに私が面白くないのです。あれだけの卑劣な行為をしておいて、よくもまあぬけぬけと世間に出てこれること!私だったら恥ずかしくて人様の前に出られないのにとも思っています。

私は綺麗ごとをここに書くつもりはないのです。できたこととできないことを書いています。私は聖霊に、そしてイエス様に、このことを未だに委ねたくはないのです。それは彼女だけが美味しい思いをしているから、メシウマに見えるからです。「赦し」が「相手の卑劣な行為を正当化すること」に思えてしまうのは、コースの基礎理解で躓いています。怨恨・復讐・殺意のカルマを持つ私には、殴り掛からないだけ殺しに行かないだけで精一杯です。それだけ、赦しが難しいのです。

十年という歳月

Ref: ふとした瞬間に炙り出される罪(sin) 
夢からの目覚め①
夢からの目覚め②

昨日何かふと、前の彼のことを赦せた気がしました。相手の幸せを心から祈れるようになれたのなら、きっとそうでしょう。十年もかかってしまいましたが、赦しを諦めずにいたことは良かったと思います。

この曲のPVに出てくる俳優さんの雰囲気が彼に似ていて、都会に住んでいた当時の心模様と歌詞が共鳴しています。恨みという重い感情を手放せた今は、このPVが何処か懐かしく感じられます。