猫達の紹介②

先日、聖霊の導きに関して大きな動きがあったのですが、まだうまく言語化できないでいます。十日に一回は記事を書きたいと思っていますので、先にサビちゃんの子供達の紹介をします。

奇跡講座・奇跡のコースのブログなのか、猫ブログなのかよくわからなくなってきました(笑)。私は、動物達も一なる神の子としての種族を超えた兄弟姉妹だと思っています。

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サビちゃんの三匹の子供達です。まだちゃんとした名前を付けていません。茶トラちゃんとキジトラちゃんが雄で、クロちゃんが雌です。栄養状態が良いので、元気に猛暑を乗り切ることができました。この子たちのTNRは十一月から十二月を予定しています。

動物達には愛が全開になっています。この愛の流れを堰き止めるのは苦しく感じられて、与えても与えても尽きることがありません。そしてなぜか以前にも書きましたが、私は逆に動物達から絶え間なく愛を与えてもらっている感覚があります。彼らがそこに居るだけで、私は愛をもらっているのです。彼らの存在そのものが、喜びであり愛なのです。

この愛の流れについて新しい課題を聖霊から受け取りました。それを次回は書こうと思います。

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九月になりました。

やっと九月になりました。今年の夏は例年以上に暑さが厳しく感じられます。全国で最高気温を競う地域に住んでいるので残暑は長いのですが、蒸し暑い中でも今朝の雨でホッと一息つける気がします。

自身の罪 (sin) に注意深くあると、それらが別の仮面を被ってやって来ても、正直に心と体感覚を感じていくことで、それらが既に判明していた罪であることが殆どです。しかし、無防備な状態で罪を見ていくことは簡単なことではなく、この夏のように40℃近い気温が続く中で、何をするにも汗だくになり身体が疲弊してイライラにまみれてしまうと、神の元に帰ることがまるで目的地が見えない砂漠を歩いているかのように途方もなく感じられてしまいます。このような暗澹たる気分に包まれると、いつの間にか私も蘭丸さんも「自責の修行モード」に入ってしまうので、昨日の姫乃宮亜美さんの記事が、心に優しく触れました。

今月は久しぶりにアロマテラピーのマッサージを受ける予定です。気前よく猫達の面倒を見るのと同じように、自分にもより愛と感謝を持って接しようと。厳しい暑さを乗り切り疲れた自分を労わりたいと思います。

ふとした瞬間に炙り出される罪(sin)

日常のふとした瞬間に、罪(sin)が炙り出されることがあります。昨日、近いうちに食事を約束していた友人から都合が悪くなったという連絡をもらいました。そのことで胸がギュッと苦しくなる感覚があって、何だろうと丁寧に心を見てみました。頭は理屈をこねますが、心の言葉というのはシンプルなものが多くて、昨日の場合は「私の存在そのものが迷惑だ」という痛みでした。

「私の存在そのものが迷惑」―――いたたまれない感を伴うこの罪のエネルギーはこれまで何度か体感することがありました。辿ってみると一番手前にあったのは、蘭丸さんと出会う前に結婚の約束をしていた男性から別れを切り出された時、そして元夫との酷い結婚生活、もっと辿ると幼少期へと繋がります。胸がギューッと縮こまり苦しくなるこのエネルギーは、自分自身を強烈に恥じる感覚を伴うので、受け止めることが怖いようにも感じられます。その分だけ痛みに留まるのが難しく、きっと今がそのタイミングなのだなと思いました。前の彼のことは、本人からそのように言われたわけではないのですが、この罪が強く引き出されてしまったように思います。

そして「私の存在そのものが迷惑」という罪を、今は父にそのまま投影していることに気が付きます。「父親の存在そのものが迷惑なので、早く死んで欲しい」このように自我は自分自身の罪を投影によって他者へとすり替えてしまうのでした。仕組みがわかってくると、風船の空気がシューッと抜けていくように、痛みが和らいでいきます。過去のことであっても罪が温存されていると痛みだけがまだ生々しく、心には時間が無いかのようで、それが不思議なのです。そしてこの罪が、得体のしれない父に対する強いイライラにも繋がっていたなんて、自分ではわかりません。赦しを続けていくと、聖霊に祈り委ねることでしか解けないものが大半であるように感じます。聖霊にしか見えない心のプロセスが確かにあるのです。

今回明らかにされたこの罪を聖霊に取り消して癒してもらう祈りを捧げた後に、私の心にはもう一つ言葉がありました。それは微細な感覚でしたが「会えなくても彼女と話がしたい」という気持ちです。自分を大切にすることを実践しているので、こうした小さな願いを丁寧に叶えようと思い、彼女に再度連絡してみました。お互いの都合が今日は合ったので、ネット回線を通じてゆっくり話をすることが出来ました。

なんだか、私自身がやっと自分の心(気持ち・本音・感情)を丁寧にすくい上げられるようになったことが嬉しいです。

イエス様の御手

Ref: 今年一番の難所
猫達の紹介(追記あり)

外猫サビちゃんとハナトラの避妊・去勢手術(TNR*注)が終わりました。先月からサビちゃんが三匹の子供達を家に連れてくるようになって、今は家猫三匹と外猫六匹の合計九匹の大所帯になりました。成猫は全て避妊・去勢済みで、残る仔猫達は冬に手術を予定しています。

縁あって現在面倒を見ている猫達以外にも、まだ殺処分が多い地域で奮闘されている動物保護団体さんに微々たる金額ですが募金をしています。また、里親募集の情報や迷子犬・猫の情報もTwitterで拡散しています。犬猫の殺処分がゼロになることが私の夢なので、動物愛護には情熱が向かいます。以前からTwitterは動物クラスタ専門で使用していますが、そこで流れてくる様々な情報を見ているだけで、気持ちが大きく動き赦しの機会を与えられます。

以前に「自分は生と死の境目に居る感覚がある」「死に向き合うことになる気がする」と書きました。動物愛護に携わると、必然的にその場所に立つことがわかりました。様々な問題が積み重なり、私にとっては信仰がなければ耐えられません。

現在の法律では動物虐待は器物破損扱いなので、重くても執行猶予しかつきません。殺意・怨恨・復讐のカルマがある私の自我は、事実上野放しになっている虐待犯に対して、彼らが猫達に対して行ったのと同じくらい残虐な方法で復讐してやりたいという強い衝動に突き動かされます。そうした自我の動きを見つめながら、聖霊と共に私の目に映る幻想世界のスクリーンを取り消してもらう祈りを続けています。

生きとし生ける全ての命が幸せになるように聖霊にイエス様に祈るとき、私も虐待犯も悪質なブリーダーも、人間の悪意と都合によって苦しみぬいて殺されていった小さい命も、もれなく全員が含まれます。真の命とは肉体ではなく、永遠不死の一なる神の子としての魂です。イエス様の御手、その大きさは計り知れず、只々信頼するのみなのです。

 

*注:TNRとはtrap neuter returnのこと。野良猫を捕獲し、避妊・去勢手術をして元の場所に返すこと。TNR済みの猫は目印として耳をさくら耳にカットします。

善なるもの、美しきもの、聖なるもの

神の子よ、善なるもの、美しきもの、聖なるものを創造するために、あなたは創造された。これを忘れてはならない(中央アート出版社『奇跡講座』テキスト第一章 Ⅶ 2.1-2)。

先日久しぶりに蘭丸さんと函南さんと三人で食事会をしました。私以外は関西在住の為、一年に一回、夏に大阪で集っています。私がリクエストしたある変わった料理を食べられる場所を蘭丸さんが探してくれて、今回は小さなお店ながら本格的なスパイスが香る美味しい料理を食べることができました。遠い異国からやってきたシェフとスタッフさんが丹精込めて作った彼らの故郷の料理を前にして、感動したのです。暑い国の薬膳が身体を巡り、暑気払いになりました。汗を沢山かきながらハーブやスパイスの力を体感させてもらいました。二件目も私のリクエストで探してもらった珈琲専門店です。珈琲の香りを引き立てるようにクラッシック音楽が静かに流れる清潔で落ち着いたお店でした。全身の細胞が「美味しい!」と賛美する程の丁寧に淹れられた素晴らしい珈琲を頂くことができました。

喜びを持って生きるとはどういうことなのか、模索している最中です。料理が美味しいとか体感覚がホッとするとか、活けられた花の美しさと香りに魅了されるといったことを「身体は幻想だからどうでもいいことで世界も幻想だから価値が無い」と決めつける傾向が私にはあります。宗教カルマにより、戒律を守っていれば安泰だと信じて禁欲主義に走ってしまうのです。それは誰かが表現した愛なり生きがいといったものを受け取らず評価しないということでもあります。私はSNSが苦手なのですが、それはひたすらに他人の自慢大会を見させられているように感じてしまうから疲れるのです。誰かが喜びや楽しさを分かち合っている行為でさえも、自慢大会と知覚してバッサリ切り捨ててしまうところに、私の禁欲主義が隠れています。そんなことをしているから虚無的になり病気が長引くのです。

そうした心の傾向と向き合いながらも、実際に美味しい料理や香り立つ珈琲を囲み、蘭丸さんと函南さんと共に過ごしたひと時は、確かに私に元気を与えてくれました。今回は食べ物飲み物が持つ滋養のようなものが、内側に染みわたった気がしたのです。

善なるもの、美しきもの、聖なるものとは何でしょうね・・・。神の子の愛の発露として創造されていく、表現されていくそれらにもっと心を開きたいと思うのです。

心が治療される時②

(つづき)

私は父に「私は生きていてはいけない。なぜなら神に呪われているから」という自己存在への強い罪悪感と、そこから派生する自己処罰の信念を投影していました。以前にも書いたと思うのですが、私は絶対に幸せになれない、なれるはずがない。なぜなら神が私の存在を赦してはいないからという意味不明の信念を抱えており、何か不幸なことが起こると「ほらやっぱりね」と納得してしまうのです。前の結婚で元夫に殺されかけた時にも、心の何処かでそのように思っていました。

この強い罪悪感と自己処罰の信念は、父方のファミリーカルマだと思います。なぜなら父もこれと同じものを持っているので、無意識に自分を責めるのと同時に他人をガミガミと口うるさく責め立てることを止められないのです(ご存知の通り、ひと世代前の祖父はアルコール依存症で家族に当たり散らして怒鳴りつけ、暴れていました。私の父はそのお陰でACですがアルコール依存症にはなりませんでした)。
父とは違って饒舌ではない私は「口が立たない」ので、それが殺意という実力行使を伴う暴力的な形で投影されます。耳障りな声でガミガミぎゃんぎゃん小言を言い続ける父に対して、「うるせーな!」と物を投げつけて黙らせようというわけです。

長年の内観や癒しのお陰で、他者に対するそれらが順次取り消されても、一番身近な父への投影と共に、自分自身に向かう刃が病気という形態で残っているのが今回よくわかりました。強い罪悪感と自己処罰の信念は、自己治癒力を阻害して病気で居続けることで自らを罰しているのです。
そして同時に外側へも有罪宣告が行われています。父が粗雑で無配慮で、年をとっても病的に自己中心的なのだから「罰せられて当然だ」と自我は父に罪を擦り付けています。私はそんな父が居るからイライラして気分が悪いのだと。

しかし、もう罪の擦り付け合いは十分です。

私も父も、あるがままで存在を赦されている無罪無辜な神の子であるという真実を、聖霊に見せて欲しいと祈ります。原因はたった一つで、それは私の心にあります。私も父も神の御子として同時に癒されること・・・それを選ぶと決意しました。

 

 

 

心が治療される時①

西日本豪雨被害の被災地の方々と動物達に、安心できる穏やかな日々が早く戻りますように、お祈り申し上げます。

コースと姫乃宮亜美さんの語られていること、この二つが私にとって神の愛に戻る為の大切な二つの柱になっています。蘭丸さんと私は性格は全く似ていませんが、生きることに喜びを見い出せず厭世的になり、虚無感に陥りやすい点は同じです。早くこの馬鹿馬鹿しい狂った幻想世界から脱したいが故に、人生そのものと生きることへの嫌気が気分を占めてしまうのです。私にとってはコースだけでは光が当たりにくいこの部分を、姫乃宮亜美さんが導いてくれています。

先日、少人数での亜美さんのお話会があり、参加してきました。そこで、自分のここ数年に渡る体調不良が改善されない理由が、父親への投影とつながっていることがわかりました。これまで、父に対して嫌悪感や怒り、いら立ちを感じる時に、それらの不快な感情や気持ちを聖霊になんとかして欲しいと祈ってきました。しかしこれでは、私が父という人間に投影している「私の内側にあるもの」に焦点が合っていませんでした。コース学習者としてはごく初歩的なミスです。父に対する強い不快感と嫌悪感というものが、あまりに日常化しており「今日こそは父に対して、怒鳴り散らしませんように」と願うばかりで、「私の不快感をなんとかして欲しい」に留まっており、聖霊に祈り委ねる対象が投影の本質に至らなかったように思います。

(つづく)

テキストを読み返す中で

テキストの読み返しは第四章に入りました。第三章の終わりから第四章にかけて、イエス様のシンプルながら強く心に響く言葉が幾つもありました。

あなたがによって創造されたことだけが、決して揺らぐことなき土台である。なぜなら、光がその中にあるからである。あなたの出発点は真理であり、あなたは自らのはじまりに戻らなければならない(中央アート出版社『奇跡講座』テキスト第三章Ⅶ 5. 5-6)。

あなたが恐れているときは静かにして、が実在することを知り、あなたはが喜びとする愛し子であることを知りなさい(中央アート出版社『奇跡講座』テキスト第四章 Ⅰ 8. 6)。

は恐れの作者ではない。あなたがそうである。あなたはに倣わずに創造することを選んだ。だから、自分のために恐れを作り出した(中央アート出版社『奇跡講座』テキスト第四章 Ⅰ 9.1-3)。

 

人と自分を比べることで自我は私を攻撃し、価値の無いものを価値あるものとして突き付けてきます。そこに真の命― 一なる神の子としての永遠不滅・不死の命― はありません。外へ外へと意識が向かい、行動することで仮初めの安心感を得ようとする私の自我にとって、殆どを家で過ごす日々は、聖霊から与えられた恵みです。ともすれば「ご愁傷様」「神に呪われている」と自我が言い出しかねない状況の中で、聖霊だけが真理の光を見つけ出してくれる ― この信頼をもう一歩もう一歩と深める毎日です。

梅雨が明けて暑さが厳しくなりイライラしやすくなる季節に入りました。心の平安を最優先にしなければ、乗り越えられない何か、カタチではなく心の眼で見なければ見えない何かを、以前よりも深く広く探す夏になりそうです。

信頼することが私の仕事②

(つづき)

自分が人や世界に影響を与えることは許可しても、人や世界から自分が影響されることを嫌う私は、子宮から影響されることも嫌います(子宮が自分のものではないという感覚があるから)。子宮を取ることで自らの力(自我の力)と防衛策であるコントロールを回復できるのだと暗に信じていたのです。全部自分でやりたい、自分の食い扶持は自分で稼ぎますと言い切る時に、私は世界や他者を締め出す冷たいエネルギーを発しています。他者との関りを持ちたくない、影響を受けたくない、ほっといて欲しい、コミュニケーションしたくない、依存的な生き方は惨めでダサいからしたくない、心の痛みに触れられたくない、もう二度と裏切られたくない、そもそも他者を信頼していないし男性は特に信頼していない etc・・・そんな本音が横たわっています。

原因である根本的な心の不信感を癒すことをせずに放置したまま、外側を動かしても意味はありません。つまり、手術さえしたなら大丈夫だとか、再び仕事を始めて収入を得られれば安泰だとか、外側に見える「正義」さえ死守したなら問題は解決されるという知覚の歪みがここにあります。

しかし、私は自分の浅はかな「正義」よりも神を信頼することに決めたので、立ち止まります。私にとって神の愛に触れる方向に、つまり信頼により他者とつながり心を開いていく方向、赦しへと導いて欲しいと祈ります。

蘭丸さんにこの話をしたところ「(聖霊案件なので)仕事がこれからどうなるかわからないけれど、マイティさんが僕を信頼してくれていると思うと力が出てくるよ。マイティさんの今の仕事は、パートナーである僕を信頼してくれることなんだと思う」と言ってくれました。蘭丸さんの言葉を受けて、何処か心がホッとしている私がいます。

信頼することが私の仕事①

それぞれ別の問題が実は原因がひとつであることがあります。

蘭丸さんが仕事を始めて彼だけに目まぐるしい変化があることに、私はとても焦っていたのだと思います。今月はブクブクと海に深く素潜りしたような一か月間でした。水圧が重くのしかかる陰鬱な海底を彷徨い、下旬になりやっと光が差し込む場所に浮上してきた感じです。

薬を変えてから不正出血が長期間続くことは改善されたものの、過多月経には変化が見られません。微妙な生理周期の変動により、友人知人と会う予定の日に生理が重なってしまい、行けなくなることが多々あります。それは出血量がかなり多いので外出が困難であることと重い生理痛の為です。自分の都合で相手の予定を変更してしまうことに開き直れる性格ではないので、罪悪感が生じます。私の自我にとっては、自分の予定していた通りに、思った通りに動くことや働くことが「正義」なので、知らない間にこの「正義」に沿うように意識が向かってしまうのです。「正義」は疑いようも無いですから、最初から聖霊に聞くことを忘れます。殆どの場合、聖霊は全く別の見方をしているのに。

子宮全摘手術を受けなければ、蘭丸さんと一緒に暮らせないし、この目に見えない檻のような日々から抜け出せないように感じていました。自我的に全く役に立っていない子宮という7cmあまりの臓器に振り回され邪魔されているかのように感じられ、猛烈に腹が立ちます。しかし主治医の所見では「閉経まで逃げ切れる(閉経になれば子宮筋腫は小さくなります)」とのことで、現在どうしても全摘手術を勧められているわけではありません。

聖霊や指導霊様、また子宮そのものに聴いても手術の許可がおりません。思った通りに動けないことに腹を立てている自分の素直な気持ちを洗いざらい受け止めながら、数日間静かに内観を続けてみました。すると、ふと疑問に思ったことがあります。閉経までのあと五・六年の間、月に四日程度身体を休めることを、私はなぜ自分に許可できないのだろうか?と。蘭丸さんと一緒に住むことに関しても、私の健康状態が彼の足を引っ張るかのように感じるのはなぜだろう?私の体調に関して今まで彼から一度でも、心無い言葉を受け取ったことは無いのに・・・。

殆どお金を使わない生活スタイルの私は、手元のお金で閉経まで年金の支払いを含めた必要経費を賄えることを知ります。また、蘭丸さんの仕事が軌道に乗り彼の所得が増えれば、私を養える可能性もでてきます。手術以外の可能性を初めから見落としていたことに気が付くのです。更に心を丁寧に見ていくと、ここで少し触れた私の性に関する問題と、同じ信念に突き当たります。それは「私は男性から絶対に裏切られるのでコントロールを手放したくない」という信念でした。

(続く)