セスの物語

昨日、1998 年のアメリカ映画「City of Angels」を、ふと思い出して再び観てみました。

当時、主演のニコラス・ケイジが大好きでしたので、公開と同時に劇場に足を運んだ記憶があります。以前に紹介した「天使がくれた時間」と同様に、当時と今とでは感じ方が違う作品でした。このお話はセスとマギーの物語だと思っていたのが、実はセスの物語であったことに気が付きます。そして後半の悲しい出来事に「なぜその展開なの?」と納得できずに疑問を持っていたのですが、現在は、マギーがセスに贈った最大のプレゼントが「人間として生きること」であったように思いました。

何よりも印象的なのが、セスや他の天使たちが人間に向ける温かい眼差しです。心が落ち着かなかったり混乱している人間を、後ろから優しく肩を抱く天使の姿が描かれています。時にそれは商店の店員に銃口を向けている強盗犯に対しても同様に、天使は優しく肩に触れているのです。彼らが人間に対して判断や裁きを持っていないことがわかります。天使たちは街に沢山いて、なぜか図書館に集っています。毎日、日の出と日没に太陽が「奏でる調べ」を浜辺で聴き、病室で過ごす子供や家族たちを励まします。そして、人が肉体を離れる時に安心させながら天国へと連れて行くのです。

天使には無くて人間にはある幾つかの特徴として、この作品では「感じること」に焦点を当てています。ラブストーリーなのでロマンティックな設定にはなっているのですが、作品の随所に大切なことが散りばめられており美しさを感じます。コースの言い方を借りれば、日常で心・意識の置き場所が自我(エゴ)なのか、そうでは無いのかによって知覚が変化する有り様を天使を使って表現しているようにも思いました。

日本語字幕の予告編がなかったので、美しいサントラの動画を貼ります。
https://www.youtube.com/watch?v=FUJaW_jNwkQ

 

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令和 美しい響きの時代に

いよいよ新しい令和の時代に入りました。
平成最期の日は、静かな雨の一日でした。雨音を聴きながら、様々な想いが心に上がってきました。不思議と、とても眠い日でもありました。できたこと、できなかったこと、赦せたこと、まだ赦せないこと、赦せた人、赦そうとすら思えない人。体験してきた出来事をゆっくり見ながら、これからどう在りたいのか、そんなことに思いを馳せました。

私の中には、未だに癒されることを待つ幾つかの心の痛みがあり、そこに触れると強烈な屈辱感が湧き上がってきます。このブログに何度か書いたことがありますが、やはり自分が女性であることを100パーセント心地よく受け入れられてはいません。それに付随して、性的に屈辱感を味わった過去の体験に関しても、私はまだ自分自身に愛と赦しを与えることが難しいのだと知ります。

引きこもり同然の閉じた状態で、蘭丸さんと一緒に必死に赦しをしてきたけれど、これらの痛みに関しては、今後は人との関わりで光が当たるような予感があります。言い換えるならば「これらは赦され癒される為に、令和の時代を待っていた」というような感覚です。

日本の精神的支柱であられる天皇皇后両陛下が交代される日は、この国に住む私達にとっても大きなエネルギーの区切りでしょう。誰も犠牲にならない、誰もパワーレスにならない新しい美しく調和な ――「令和」を英語でbeautiful harmony と訳しているそうですね ―― 意識の状態を既に皆が知っていて、皆でそこに向かっている気がします。

新しい時代の波を受け、赦しを待つ私の痛みも優しく包まれほどけていくことを、聖霊に祈りながら信じたいと思います。

十年目の春

コースと出会って十年になりました。四月は誕生月であり、コースと蘭丸さんと出会った季節でもありますので、感慨深くなります。ありがたいことに、何名かの方からセッションの申し込みを受けています。

術後、初めての遠出であったこちらの円座に参加してから、世界や人に対する関りや質感が変化したように感じます。つい先日、ある場所で仲介役のようなポジションに立ったのですが、その際にも同じように感じました。以前の自分であったら、できなかったことができていることに気が付きます。動物だけではなくお人に対しても、つながりや親密さ、愛を以前よりも感じやすくなっているのです。

不慣れもあって、セッション前には無防備な状態で臨むことへの恐怖心が強く表れてきます。足元から立ち上がってくる怖れの感覚に、毎回逃げ出したくなります。しかし、私とお相手様が必ず同時に聖霊から祝福されるひとときとなるので無防備にならないと、あるがままを見られないし、聖霊が入ってこられるスペースは作れません。だとしたら、この震えるくらいの怖れは何なのか・・・私のセッションに必要なのは、サイキック能力ではなく、神への信仰と一なる神の子への信頼であることを感じます。

初めてコースを手に取った時「ここには真実が書かれている」と直感し、不思議な確信と感動に包まれた十年前・・・あの日には想像もできなかった視界が広がります。願わくば次の十年も、それがより豊かで幸福感に満ち溢れたものでありますように。

音声セッションを始めます


あなたと一緒に、私達が神に赦された存在であることを分かち合いたい
内側には既に答えがあります。
*******
奇跡講座の学術的な質問には答えられませんが、私自身の感性を使って
あなたの内側に既にある答えにフォーカスしていきます。
場合によっては静かにお話を聴くだけになるかもしれません。

〇 Zoomによる音声セッションです。
〇 時間:1時間15分(75分)
〇 セッション開始時間:午後二時からの枠/午後九時からの枠
〇 料金:10,000円 (事前振り込みをお願いします)


<申し込み方法>
〇メールの件名は「セッションの申し込み」でお願いします。
お名前、メールアドレス、セッション希望日時の第一・第二候補をご記入の上、ciel_acim猫yahoo.co.☆p にご連絡下さい。
*猫をアットマーク、☆をアルファベット小文字の j に変えて送信して下さい。Yahooメールが送受信できるように予め設定をお願いします。

彼岸へ、そしてその先に

森で行われた泊りがけのワークショップを終えて戻りました。未だに静かな余韻が漂います。参加者約10名は、同世代か少し上の世代で男女比率が半々でしたので、まるで修学旅行のようでもありました。それぞれが年齢を重ねてきた重みと味わいのようなものが場に漂い、それらが嬉しくもあり鮮やかでもありました。人と関わることが億劫な私が、人と関わることの楽しさと豊かさを感じた充実の三日間でした。

ファシリテートする橋本さんの死生観と人と人とのつながりや在り方への視点が、私は大好きです。先生と呼ばれ持ち上げられることをご本人が好きではないようで、「くにちゃん」と親しみを込めて呼ばれる小柄な大阪のおっちゃんは、誰の力も奪わず風景のようにそこに佇み、童のように目を輝かせます。11年前もそして今も、私は彼を心から尊敬し、あのようでありたいと思います。真に偉大な人は、静かに市井の中にいるものです。

橋本さんが主催する場(円座、といいます)というものは、有機体のようでもあり、ただ円になって座っているだけなのですが、不思議と「個別の私達」という分離感が揺らぐように思います。そこに何らかの意図や操作があるわけではなく、それらが無いからこそ、立ち上がってくるものがあります。誰かに投げかけた言葉が、それを発した本人にも同時に作用するような、そして、第三者の口を借りて誰かの本音が紡ぎ出されたりします。それぞれが隠していた何かが不意に現れて、戸惑う時があります。ただ、それらが他のワークショップと違うのが、場の主旨がヒーリングやセラピーといった人為的なものに比重が置かれていない点かも知れません。橋本さん曰く、円座は俳句に近いとおっしゃいます。

今回私にとって、それは自分の情念のような側面でした。感情や気持ちをゴミ箱に捨てる心の癖は、ドライな心象を保つことで必死に守ろうとした何かがあります。しかし、何年も費やしてやっと受け止めることができた殺意にも似て、私の中の情念もまた、私自身に受け入れられるのを密かに待っていたのかもしれません。「人に対する、こんな湿っぽくおどろおどろしいものは要らない」と押しやってしまうと、知らないうちにそれに私自身が乗っ取られます。エニアグラム感情センターのウェットな人達を馬鹿にして「知的ではない」と鼻で笑いながら、知らないうちに彼ら彼女らに振り回されてしまうのと似ています。半ば化け物扱いをしてきた彼ら彼女らこそが、一番見たくなかった認めたくなかった私そのものであるという視点にやっと立てたのかもしれません。

図らずも、その作用によってなのか、長年の懸念事項であったアルコール依存症の祖父への赦しが大きく前進したのを感じます。祖父を地獄に留まらせ成仏させることを赦さなかった私が、成仏へと歩(あゆみ)を進めた感がありました。

橋本久仁彦さんHP : http://enzabutai.com/works.html

目的は知っているものの②

(つづき)

これから始めようとしているセッションそのものが、私の自己否定と人間不信を癒す旅になることは間違いありません。相談に来てくださった方と一緒に、私達が神に赦された存在であることを分かち合いたいーーこれがセッションの目的であると直感的に知っています。しかし、どのようなかたちでそこに向かえばいいのか自己否定と人間不信が邪魔をして手前で心が止まっているのです。

今月の21日から数日間、泊まり込みであるワークショップに参加します。2008年の夏に参加して以来 11年ぶりですが、分かち合いを恐れる心の癖を揺り動かす内容になるはずです。参加するのが怖いのですが、必ずセッションの在り方に何かの影響を与えてくれるでしょう。



目的は知っているものの①

以前から依頼されていたお二人の方の音声セッションが無事に終了しました。やってみないと分からないこともあり、勉強になりました。幸いお二人とも、とても充実したセッションでしたと言って頂き、ホッとしました。
こちらはコース学習者のトベさんのご感想です。⇒ マイティさん初セッション
トベさん、ありがとうございます。

現在、どのような形でセッションをしたらいいのか練り上げている最中です。実際にモニターの方とのセッションを終えて、一般募集に踏み切る手前で気が付いた事がありました。私の自己否定と人間不信に関してです。

それは、以前にブログで言及し長期間赦しの対象であった若葉さんについてのことです。私は自己否定と人間不信を、彼女と同じくらいの質量で持っているのではないのかと思ったのです(若葉さんは今回のモニターは受けていません)。彼女と私は、自我による解決方法が全く真逆なのです。若葉さんは、できないことでも大風呂敷を拡げてアピールをし(自己アピールそのものが目的になっている)、私は持っているものを人と分かち合おうとはせずにしまい込んで閉じこもる傾向があります。自己否定そして人間不信を、特別性を掲げて注目されることで乗り越えようとするのか、または攻撃されないように心を閉じ自分を隠して引きこもってしまうのか、きっとどちらのやり方にも真の解決はありません。

(つづく)

猫たちからの返礼品

2017年12月に書いたこの記事で取り上げた、壮絶な拷問を受けて殺されていった猫達のことを祈り続けています。そして、追悼の為に描いたこの絵も紹介しました。

二か月ぐらい前に、母親が知り合いの方から頂いた大きいタオルを私にくれました。日中、家猫ちゃん達が私のお布団の上に寝る際に、カバー的な感じで猫専用のタオルを敷くのですが、大きさが丁度良いと思い、何気なく使っていました。ある日ふと、その図柄をよく見てみると思い当たる構図なのです。

追悼の絵と、似ていませんか?宇宙と猫が一致しただけ、なのかもしれませんが。母親もタオルの送り主も、この絵のことは知りません。偶然に私の元にやってきたタオルです。

私には、あの猫達が「大丈夫だよ。僕たちはみんな天国に居るからね。ありがとう」と言っているように思えたのです。それは私に対してだけではなくて、あの事件に心を痛め、あの子達を想う全ての人達にそう言っていると感じます。

祈りはちゃんと届けられている・・・胸が温かくなりました。

春を感じる冷たい雨の日に

Ref: 新たな挑戦

前回の記事とも関連しているのですが、微細なエネルギーを感じやすくなった気がします。それは入院前に友人から頂いたお花のハーブティーを飲んだ際に、植物が持つ微細なエネルギーや効力のようなものを以前よりもハッキリと感じるようになりました。また、ある晩の睡眠中に、紫色のパワーストーンの大規模なフェアに参加するという不思議な夢を見ました。その夢の中で、この鉱物が持つ波動の、画素数が地球上では見たことも無いくらい高く鮮やかな世界を垣間見ました。落としたり投げたりするはずもないのに、朝目覚めた時に一晩で手元にあった紫色のパワーストーンがなぜか綺麗に割れていました。

自分の感覚がこれまでと違ったところにチューニングしているようです。そこは本来の私が一番自然な状態である意識の置き所のような気がします。記憶を辿れば、これは幼少期の感覚と同じでした。わずか三歳で交通事故で亡くなってしまった一番仲の良い幼馴染は、全体性に吸収されたので「見えなくてもいつも一緒に居るよ」と感じ、家の中の箪笥や畳、消しゴムや外の木々にも意識があるとして、普通にそれらと人間のように会話をしていた子供でした。先日の蘭丸さんの声ブログで彼が話していましたが、そこはパワー中毒の私の自我が嫌う脆弱さや繊細さの感覚でもありました。

先週、以前から有償でのセッションを希望されていた方と別件でやり取りをした際にふと、依頼されていたセッションをやってみようという気持ちが生じました。自信は全く無いのですが、その静かな気持ちに沿うことが今の私には自然に感じられました。そして時を同じくして、なぜか 2017年にこちらに書いた睡眠中の現象が再開したのです。

私は目に見えない領域に関しては非常に慎重です。現在依頼を受けている方々のセッションをしてみてから、どのような形でここで募集をするのかは追々決めていきたいと思います。

体感覚による知覚の変化

先日、診察がありました。順調に回復しています。傷口の関係で、入浴はシャワーのみでしたので、やっと温かい湯舟に入ることができました。冷えた身体が温められてホッとしています。出血も減り、傷口も週ごとに楽になっています。今日で手術から丁度一か月経過しましたが、以前よりも家の中で心が穏やかに過ごせています。一番投影がきつい父親に関して、イライラが減ってきました。それは一気に平安になるというよりも手術の回復と似て、本当に少しずつという感じです。

自分の反応が変化しているのを感じる出来事がありました。それは、以前の自分ならば怒りと共に相手に説教をしかねない件でした。命に関する相手の決断が、私にとっては「絶対にありえない」ものであったので、私の自我が罪を見出すには恰好の相手でした。蘭丸さんからも指摘されていましたが、私は痛みを感じたり傷ついたと感じた 0.1秒後には、それらが怒りにすり替わります。引き金となった相手に暴言を吐いて怒っている時には、私は私自身の痛みから目を逸らしているのです。なぜなら、傷つく感覚が敗北感と繋がるから痛みは屈辱と知覚され、それらを丸ごと受け入れることが難しくなるのです。

でも今回は、頭では「ムカツクから彼女を論破して説教してやる!」という攻撃的な考えが出てくるのに、心は全く別の反応をしていて、ただただもう傷ついている感覚がありました。頭では、第三者で関係のない自分がなぜこのことに傷ついているのかがわかりません。でも、心は三日間くらい痛みを感じていました。私は彼女に怒りをぶつけること無しに、自分が痛みを感じていることを伝えることができました。小さなことでしたが、私には大きな一歩でした。
相手に同調せず、変に物分かりの良い受け答えもせずに(以前は敗北感を感じたくないので、これをやっていた)相手の選択を尊重しながら自分の正直な気持ちを伝えることが出来たのです。

最近、頭と心の反応が全く違うことが見えてきました。以前ならばそれらが混ざり一緒くたにされて知覚していたと思うのです。でも今は、体感覚としてそれぞれ別に知覚されるようになってきました。なんだか不思議です。