本当に欲しかったもの

「犬猫ちゃんの殺処分を無くす為に、健康になったらもっと自分は与えられるはずだ」という思いで子宮摘出手術を受けることを決めてから、様々な気持ちの揺れや変化があったのですが、なぜか前の夫のことが本格的にどうでもよくなってきました。私は猫たちから内側の愛の鉱脈を与えられ、そこに立っていると例のメシウマ論(Ref 過去記事①  )が取り消されていくのです。

今にして思えば、私のメシウマ論というのは「私の自我よりもずっと巧妙な小賢しいやり方で愛の代替物をより多く搾取できる自我を持っている人」に向けられた負け犬の遠吠えのようなものでした。でも、自我が自我である限りは決して愛を感じることも愛を手に入れることもできないと徐々に実感し始めると、愛の代替品に何の価値があるのだろうかと思うようになりました(愛は与えるもので、自我にはそれができないから)。そんな心の変化の中で、元夫を哀れに気の毒にさえ感じるようになったのです。

当時の彼が得たものは、精神的に衰弱していた私から巻き上げることができた私の稼いだお金約三百万円と私が持ってきた百万円の檜の家具、若い再婚相手、「嫁(私)が新興宗教に入って頭がおかしくなったから離婚した」という嘘により作られた彼の都合の良い状況、そんなところでしょうか。今の私には、彼が得たそれらに価値があると思えなくなったのです。

現在、元夫がどうしているのか全く知りません。たとえ彼が仕事も充実してお金も持っていて健康で家庭円満であったとしても、なぜか恨む気持ちが無くなってしまいました。「打ち込んでいた仕事を何年も前に辞めて、それからずっと病気がちで再婚も未だできす、子供も持てずに遂に子宮を取る」自分を嘆いてもいいのでしょうが、なぜか全くなりません。なにかそんなことを吹き飛ばすくらいに、内側の愛の源泉が確かなものであり、猫たちに愛を与える喜びがそれらに勝ってしまうのです。私は苦労しましたが、本当に欲しかったものはこれだったのです。愛を知ることだったのです。

私の赦しの基準として「相手の幸せを心から祈れるかどうか」というのがあります。彼に対しては、これも秒読みの段階に入ったようです。

 

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囚われの身とは誰か

十月はブログの更新が殆どできませんでした。貧血が悪化すると、まず朝起きられなくなります。もともと血圧が下40台・上が80~90台という超低血圧のところに重い貧血がくるので、なんとかして起きられたとしても身体がだるく、頭がぼんやりしてしまいます。お医者さんから処方された強い造血剤が効いてきて、月の後半はなんとか蘭丸さんに会いに行けましたが、自宅に戻ってからまたぐったりしてしまいました。

彼と会った時に映画「教誨師」を一緒に見に行きました。映画自体は淡々とした内容なのですが、大杉蓮さんの遺作となったことから、小さな映画館は満員でした。コースを学んでいく中で、私の自我(エゴ)が究極的にやりたいことは殺人であると知ってから、どこか死刑囚と彼らを取り巻く世界が、自分と近い存在になりました。関係があるのかわかりませんが以前、顧客に政治家を持つある霊能者の方に見てもらったことがあって、ひとつ前の前世で私は死刑囚だったそうです。その人生で犯罪を犯した訳ではなく、見せしめの為に公開処刑にされたそうです。後々に、魔女裁判に関わったカルマの清算をそこでやったのだと知りました。輪廻転生はコースでは幻想に属するものであり、今私は違う幻想を生きていますので、単なる夢の連続に過ぎないことが透けて見えます。

この映画は聖書の言葉による重要な「問いかけ」を最後に投げてきます。その問いかけによる答えはコースに書かれていますが、私がその答えを「真に知る」までにまだ時間が必要です。殆ど赦しが進んでいない日々を過ごしていると、自我の見えない牢獄に囚われているのなら、実際に牢獄に入ってはいなくても彼らとたいして変わらないと思ったのです。

大きな決断

この冬に子宮摘出手術を受けることになりました。聖霊から許可が出たのと、自分の中で気持ちの整理がついたからです。来月より大病院に移ることになりました。病気を治す為にこれまで、コースを始めとして食事療法や女性性のワーク(AFP)といった様々な取り組みをしてきました。しかし、筋腫は大きくなるばかりで、それに伴う過多月経によって重い貧血状態が続き日常生活がままならなくなってきました。また、痛みと出血を伴う内診検査を受け続けることにも辛さを感じました。前回の手術から丁度五年を迎えたことと、心の中で「犬猫ちゃんの殺処分を無くす為に、健康になったらもっと自分は与えられるはずだ」という愛からの動機が出てきたことで、摘出手術を決めました。

手術を決めてから、想像していた以上に気持ちが動きます。蘭丸さんも私も子供が欲しかった訳ではないので、動揺は無いと思っていました。乱気流の飛行機に乗っているかのような不安な気持ちの中にいると、私の自我は感情はゴミ箱行きにしたがります。コントロール感を失うことへの怖れが出てくるのです。揺れ動くこの感情に寄り添うことと、入院と手術でお世話になるお医者さんや医療スタッフさんたちを心から信頼することが、子宮からの最後の課題かなと思っています。手術は十二月か来年一月を予定しています。

 

できたこととできないこと

前回の記事では十年がかりの赦しが終わったことに触れました。このブログでも再三に渡って触れている祖父と元夫のことも、少しずつですが恨みの気持ちは薄らぎ始めました。祖父は死後十八年近く経ち、元夫とは離婚して十二年が経ちました。これだけの年月をかけて、やっと激しい怒りと憎悪が薄まってきました。しかし私は今もって尚、動物虐待犯達と彼女アートセラピーでも扱ったテーマです)は赦せてはいません。

この人達に関して、直接会った場合には、私が相手に殴り掛かるくらいの強い憎悪を持っています。動物虐待犯はネットで顔と名前を晒されて、多くの人達に非難をされています。しかし彼女に関しては、彼女からの加害行為を知らない人達が彼女の作品を囲んでチヤホヤしていることに私が面白くないのです。あれだけの卑劣な行為をしておいて、よくもまあぬけぬけと世間に出てこれること!私だったら恥ずかしくて人様の前に出られないのにとも思っています。

私は綺麗ごとをここに書くつもりはないのです。できたこととできないことを書いています。私は聖霊に、そしてイエス様に、このことを未だに委ねたくはないのです。それは彼女だけが美味しい思いをしているから、メシウマに見えるからです。「赦し」が「相手の卑劣な行為を正当化すること」に思えてしまうのは、コースの基礎理解で躓いています。怨恨・復讐・殺意のカルマを持つ私には、殴り掛からないだけ殺しに行かないだけで精一杯です。それだけ、赦しが難しいのです。

十年という歳月

Ref: ふとした瞬間に炙り出される罪(sin) 
夢からの目覚め①
夢からの目覚め②

昨日何かふと、前の彼のことを赦せた気がしました。相手の幸せを心から祈れるようになれたのなら、きっとそうでしょう。十年もかかってしまいましたが、赦しを諦めずにいたことは良かったと思います。

この曲のPVに出てくる俳優さんの雰囲気が彼に似ていて、都会に住んでいた当時の心模様と歌詞が共鳴しています。恨みという重い感情を手放せた今は、このPVが何処か懐かしく感じられます。

 

 

新たな挑戦

蘭丸さんが声ブログで話していますが、新しい課題が彼に差し出される時には同時に私にもそれが与えらえます。米子ダウンロードで伝えられた「マイティと蘭丸、私たちに関しては二人で一つの役割を担うこと」について、具体的なビジョンが見えてきました。私達それぞれにとって、新たな挑戦です。私に関しては、この課題と真正面から向き合うと人間不信や人に対する恐怖心がわらわらと出てきてしまい、一週間程ぐったりしていました。現在、私の周辺にそのような方はいませんが、過去において魑魅魍魎とすら思えてしまう人達と多く関わってきたことの痛みや恐怖心が出てきたのでした。

ご存知の通り、何かのスイッチが入った時には相手にとって必要な情報がザーッと入ってくることがあります。現在私はそれを自分の意志でコントロールすることができません。そして今まで、そのような経路で入ってきた情報をお伝えしたのは既に私が知っている方、もしくは直接お会いしていなくてもブログ等で間接的に知っていた方であり、全くの初対面ではありませんでした。

新たな挑戦とは、これを全くの初対面の方に対しても行うということです。これは、自分自身の赦しの為、一なる神の子としてお相手を見るということ、そしてこの根深い人間不信を癒す為に兄弟と共に癒される必要があるのだと。動物に対しては全方向で大きく愛が開いているのに、人に対しては冷酷さを持っているのは自覚しており、酷くバランスを欠いていることは自分でもわかります。同じ人でも肉体を持っていない方には傷つけられることは無いと知っているので、安心して関われるのですが、なぜか肉体を持っている人に対しては恐怖心が増して「私は分かち合うものなどありません。あなたがどうなろうと知らない。あっちへ行って!」と閉じていこうとします。これはどう見ても防衛以外の何物でもありません。聖霊は「あなたが出会う人はあなたの鏡であり、あなた自身でもある。動物と触れ合う時と同じように、喜びを持って人と向き合い分かち合うことができる」と言います。

今はまだ、何をどうすればいいのか全く見当もつきませんし、本当に初対面の方に対してもできるのかもわかりません。ただ、そのような可能性を心に留めておきます。

猫達の紹介②

先日、聖霊の導きに関して大きな動きがあったのですが、まだうまく言語化できないでいます。十日に一回は記事を書きたいと思っていますので、先にサビちゃんの子供達の紹介をします。

奇跡講座・奇跡のコースのブログなのか、猫ブログなのかよくわからなくなってきました(笑)。私は、動物達も一なる神の子としての種族を超えた兄弟姉妹だと思っています。

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サビちゃんの三匹の子供達です。まだちゃんとした名前を付けていません。茶トラちゃんとキジトラちゃんが雄で、クロちゃんが雌です。栄養状態が良いので、元気に猛暑を乗り切ることができました。この子たちのTNRは十一月から十二月を予定しています。

動物達には愛が全開になっています。この愛の流れを堰き止めるのは苦しく感じられて、与えても与えても尽きることがありません。そしてなぜか以前にも書きましたが、私は逆に動物達から絶え間なく愛を与えてもらっている感覚があります。彼らがそこに居るだけで、私は愛をもらっているのです。彼らの存在そのものが、喜びであり愛なのです。

この愛の流れについて新しい課題を聖霊から受け取りました。それを次回は書こうと思います。

九月になりました。

やっと九月になりました。今年の夏は例年以上に暑さが厳しく感じられます。全国で最高気温を競う地域に住んでいるので残暑は長いのですが、蒸し暑い中でも今朝の雨でホッと一息つける気がします。

自身の罪 (sin) に注意深くあると、それらが別の仮面を被ってやって来ても、正直に心と体感覚を感じていくことで、それらが既に判明していた罪であることが殆どです。しかし、無防備な状態で罪を見ていくことは簡単なことではなく、この夏のように40℃近い気温が続く中で、何をするにも汗だくになり身体が疲弊してイライラにまみれてしまうと、神の元に帰ることがまるで目的地が見えない砂漠を歩いているかのように途方もなく感じられてしまいます。このような暗澹たる気分に包まれると、いつの間にか私も蘭丸さんも「自責の修行モード」に入ってしまうので、昨日の姫乃宮亜美さんの記事が、心に優しく触れました。

今月は久しぶりにアロマテラピーのマッサージを受ける予定です。気前よく猫達の面倒を見るのと同じように、自分にもより愛と感謝を持って接しようと。厳しい暑さを乗り切り疲れた自分を労わりたいと思います。

ふとした瞬間に炙り出される罪(sin)

日常のふとした瞬間に、罪(sin)が炙り出されることがあります。昨日、近いうちに食事を約束していた友人から都合が悪くなったという連絡をもらいました。そのことで胸がギュッと苦しくなる感覚があって、何だろうと丁寧に心を見てみました。頭は理屈をこねますが、心の言葉というのはシンプルなものが多くて、昨日の場合は「私の存在そのものが迷惑だ」という痛みでした。

「私の存在そのものが迷惑」―――いたたまれない感を伴うこの罪のエネルギーはこれまで何度か体感することがありました。辿ってみると一番手前にあったのは、蘭丸さんと出会う前に結婚の約束をしていた男性から別れを切り出された時、そして元夫との酷い結婚生活、もっと辿ると幼少期へと繋がります。胸がギューッと縮こまり苦しくなるこのエネルギーは、自分自身を強烈に恥じる感覚を伴うので、受け止めることが怖いようにも感じられます。その分だけ痛みに留まるのが難しく、きっと今がそのタイミングなのだなと思いました。前の彼のことは、本人からそのように言われたわけではないのですが、この罪が強く引き出されてしまったように思います。

そして「私の存在そのものが迷惑」という罪を、今は父にそのまま投影していることに気が付きます。「父親の存在そのものが迷惑なので、早く死んで欲しい」このように自我は自分自身の罪を投影によって他者へとすり替えてしまうのでした。仕組みがわかってくると、風船の空気がシューッと抜けていくように、痛みが和らいでいきます。過去のことであっても罪が温存されていると痛みだけがまだ生々しく、心には時間が無いかのようで、それが不思議なのです。そしてこの罪が、得体のしれない父に対する強いイライラにも繋がっていたなんて、自分ではわかりません。赦しを続けていくと、聖霊に祈り委ねることでしか解けないものが大半であるように感じます。聖霊にしか見えない心のプロセスが確かにあるのです。

今回明らかにされたこの罪を聖霊に取り消して癒してもらう祈りを捧げた後に、私の心にはもう一つ言葉がありました。それは微細な感覚でしたが「会えなくても彼女と話がしたい」という気持ちです。自分を大切にすることを実践しているので、こうした小さな願いを丁寧に叶えようと思い、彼女に再度連絡してみました。お互いの都合が今日は合ったので、ネット回線を通じてゆっくり話をすることが出来ました。

なんだか、私自身がやっと自分の心(気持ち・本音・感情)を丁寧にすくい上げられるようになったことが嬉しいです。

イエス様の御手

Ref: 今年一番の難所
猫達の紹介(追記あり)

外猫サビちゃんとハナトラの避妊・去勢手術(TNR*注)が終わりました。先月からサビちゃんが三匹の子供達を家に連れてくるようになって、今は家猫三匹と外猫六匹の合計九匹の大所帯になりました。成猫は全て避妊・去勢済みで、残る仔猫達は冬に手術を予定しています。

縁あって現在面倒を見ている猫達以外にも、まだ殺処分が多い地域で奮闘されている動物保護団体さんに微々たる金額ですが募金をしています。また、里親募集の情報や迷子犬・猫の情報もTwitterで拡散しています。犬猫の殺処分がゼロになることが私の夢なので、動物愛護には情熱が向かいます。以前からTwitterは動物クラスタ専門で使用していますが、そこで流れてくる様々な情報を見ているだけで、気持ちが大きく動き赦しの機会を与えられます。

以前に「自分は生と死の境目に居る感覚がある」「死に向き合うことになる気がする」と書きました。動物愛護に携わると、必然的にその場所に立つことがわかりました。様々な問題が積み重なり、私にとっては信仰がなければ耐えられません。

現在の法律では動物虐待は器物破損扱いなので、重くても執行猶予しかつきません。殺意・怨恨・復讐のカルマがある私の自我は、事実上野放しになっている虐待犯に対して、彼らが猫達に対して行ったのと同じくらい残虐な方法で復讐してやりたいという強い衝動に突き動かされます。そうした自我の動きを見つめながら、聖霊と共に私の目に映る幻想世界のスクリーンを取り消してもらう祈りを続けています。

生きとし生ける全ての命が幸せになるように聖霊にイエス様に祈るとき、私も虐待犯も悪質なブリーダーも、人間の悪意と都合によって苦しみぬいて殺されていった小さい命も、もれなく全員が含まれます。真の命とは肉体ではなく、永遠不死の一なる神の子としての魂です。イエス様の御手、その大きさは計り知れず、只々信頼するのみなのです。

 

*注:TNRとはtrap neuter returnのこと。野良猫を捕獲し、避妊・去勢手術をして元の場所に返すこと。TNR済みの猫は目印として耳をさくら耳にカットします。