心>運命

人を生かすも殺すもその人次第であると、最近強く感じています。以前の私は確かに運命論者でした。幸不幸は運命が決めるものであり、人が決めることはできないと信じていたからです。それは「自分は神に呪われていて運命から叩きのめされる」という強い罪悪感があった為です。でも今はそう思わなくなりました。長い人生の中で現れてくる様々な事柄は、既に決まっているのかもしれません( script is written )。でもそれらに向き合っていく心だけは運命は手を出せない。その人の心が出来事からどのような意味を見出すのか、それが幸せか不幸せかを決めていくと確信します。

また、人の心癖や性質・傾向といったものも往々にして、長所は短所と表裏一体に見えます。短所を長所に変えていくのも、同じく心次第であると思うのです。短所は克服すべきものというよりも、活かしていくものであると考えが変わりました。その為に必要なのは、自分自身への揺るがない愛と本当の優しさなのだと思います。これは「私だけが大切」という自我の利己的な自己愛や自己欺瞞ではなくて、他者との分離感を癒す方向での愛、一なる神の子への愛という意味です。

人が分離感の無い本当の愛を自分に注ぐことができれば、同時に他者や他の生命にも注がれて、運命は心に影響を与えることができなくなる気がするのです。私の中で心は運命よりも強く大きいものになりました。心>運命ですね。

最近なぜかその様な在り方を示してくれる方を見る機会が増えて、上に書いたことが頭だけの知識ではなく身体にズシリと入った感じがしたのです。なので冬至の夜に書いてみました。

「怨恨・復讐・殺意」の正体

今日、ある小さな出来事から「怨恨・復讐・殺意」のからくりが見えてきました。
私は幼少期にアルコール依存症の祖父から怒鳴られ続け、生活を滅茶苦茶にされて育ったことは何度かこのブログに書いてきました。家族全員に、まるでキャバクラでの接待を要求するような人でした。お酒の相手は不快なので嫌がったりその場から逃げると、小さな孫に対しても容赦なく大声で祖父は「おもいやりがない!」と大声で怒鳴るのです。この言葉は私の子供心に強い罪悪感を植え付けてきました。他人の感情の世話をしなければ自分は酷い人間なのだという罪悪感です。この罪悪感は長いこと私の心の奥に沈殿し人に対するあらゆる反応や行動に影響を与えました。学生時代の依存的な友人の世話から始まり、最初の結婚でモラハラDV夫から「俺を怒らせるお前が悪い!」と怒鳴られ続け精神を病むまで、一貫して支配していました。

コースと出会い赦しを始めてから、私は内側に静かに煮えたぎっている「怨恨・復讐・殺意」の強いエネルギーと向き合うことになり、それを解除しようと何度も何度も聖霊に祈り、数年をかけてずっと向き合ってきました。最近は、これらのカルマ的エネルギーを成仏させるべく写経もしていました。今日、気が付いたのです。それは「怨恨・復讐・殺意」は単体で存在しているのではなくて、この強い罪悪感が出所だということに。

罪悪感から自我(エゴ)が罪を贖おうとして、人の感情の世話をする、もしくは人の責任を自分が背負い自己犠牲・自責に向かう方向と、もう一つは完全に開き直り、どうせ自分は罵られ続けてきた通りの罪人なのだからお望み通りついでにお前も一緒に地獄に道連れにしてやるといった加害・他責の方向に分かれるのです。これが「怨恨・復讐・殺意」の仕組みです。最初から地獄の住人なのだから呪い殺しても痛くも痒くもないという振り切った感覚です。罪悪感を贖おうとするのか開き直るのか、これが私の自我(エゴ)の残酷なやり方なのです。

この根深い罪悪感はコースにおける赦しの意味すらも「自分が犠牲になって我慢をし、傷ついたことを無かったことにして、私を傷つけた人間はそのままのうのうとメシウマでふんぞり返って生きることを ”受け入れること が赦し”(だって私は罪人なのだからどんなに相手がクソでクズでも私は必ず有罪で相手は必ず無罪になるんでしょ?)」という間違った理論のエネルギーが身体から長いこと抜けませんでした。頭でそうではないとわかっていても身体からこれが抜けない、こっちがリアルだという感覚、それくらいに強い罪悪感なのです。

ある出来事から自分の罪悪感が刺激されて、昨晩から今日一日にかけて罪悪感のエネルギーがわらわらと湧き上がってくるのです。非常に不快で久しぶりにしんどいのですが大物が釣れた、ここが踏ん張りどころです。この罪悪感を真正面から受け止めて、聖霊に委ね取り消してもらうことをしています。神・愛を信頼する、その一点で踏ん張っています。