苦手な感情センター(エニアグラム 2 – 3 – 4 )特に自己アピールが強い 3 番の人達や、自己顕示欲が強いメンヘラが嫌いなことは、このブログに繰り返し書いてきました。過去に具体的なトラブルがあり、勝手に加害者扱いされた恨みつらみもあります。今、人生初の静けさに満ちた平和な生活の中で、この件に関して精神的余裕が無い時には扱えなかった「ある角度」に取り組むことにしました。それは、彼らと同じものが自分の心の中にあるのではないのか?という視点です。この件については罪 (sin) が濃厚で、数年をかけ段階的に掘り下げていくしかありません。根気よく向き合うしかないのです。
子供時代に親や周囲から大切にされていない、存在を無視されている、いても居なくてもいい存在だと思われていると感じた時に、その疎外感をボディーブローのようにくらって座り込み「自分なんていない方がまし」といじけてしまったのが私でした。それとは反対に「もっと私を見て!」と過剰な自己アピールを開始したのは彼らです。反応が違うだけであって、動機となる内側の疎外感や寂しさは同じなのではないのかと思い始めました。この見方を採用すると、とてつもなく不快です。それは分離感を維持して相手に罪をなすり続けたい自我(エゴ)が反応するからです。
感情や印象を使って周囲から愛を得ようと試みる在り方は、彼らの無意識のサバイバルでもあり防衛手段なのですが、そこに強烈な不快感を感じます。それは、自分が抑圧して克服した気になっている「疎外感や寂しさ」を相手から「見せられている」ようで痛いのです。自分は感情を罪として無きものにする代わりにパワーを得ることで「存在感を強固にし、周囲を黙らせる・威圧させる」防衛手段を選んだだけのことなのです。
自我(エゴ)は「湿っぽい彼らと一緒にされたくない」「私はあんな愛情乞食じゃない」と憤慨しますが、それは誤りです。彼らに投影することで温存されてきた私の「疎外感や寂しさ」は(投影している)兄弟姉妹と共に癒されることでしか消えていきません。聖霊への信頼、この一点に留まり私たちが共に癒されるようにと祈り続けるのです。